
| 年月日 | 向野堅一 | 世界の動き |
|---|---|---|
| 1868年(明治1年) | 福岡県直方に生まれる | |
| 1881年(明治14年) | 鞍手郡新入明善義塾に入り漢学を修業 | |
| 1885年(明治18年) | 明善義塾を退学、福岡の勉焉学舎に入り、普通学を修学 | |
| 1886年(明治19年) | 中学修猷館に入学 | |
| 1890年(明治23年) | 卒業を目前に病気に掛かり退学 | |
| 荒尾精の演説を聴き、清国に渡って商人になろうと決意 | ||
| 中国(当時清国)上海の日清貿易研究所に入学 | ||
| 1893年(明治26年) | 全科卒業 | |
| 実地商業研究のため中国各地を視察 | ||
| 1894年(明治27年) | 陸軍省通訳官として第一師団司令部となり、清国軍の動向を偵察する密偵となる。九死に一生を得て帰還 仲間の遺体を清国から取り戻す | 日清戦争 |
| 明治天皇に拝謁 | ||
| 1895年(明治28年) | 台湾の仏教普及活動に従事 | |
| 1896年(明治29年) | 北京日本公使館御用達店「筑紫洋行」経営 | |
| 1897年(明治30年) | 隆子と結婚 | |
| 1899年(明治32年) | 「筑紫洋行」が焼き討ちにあう | 義和団事件勃発 |
| 1904年(明治37年) | 関西で船舶会社を創立 | 日露戦争 |
| 1905年(明治38年) | 陸軍省の命令で遼西物資調査 | |
| 1906年(明治39年) | 奉天で商業に従事、茂林洋行と称し石炭販売を始める | |
| 1907年(明治40年) | 妻隆子が盲腸炎を原因に死去 隆子の妹収子が嫁ぐ | |
| 1908年(明治41年) | 硝子製造業を始め、満州鉄道員の社宅を建設していきながら、瀋陽建物株式会社を設立 | |
| 満州市場株式会社を設けて中央市場をつくる | ||
| 日支合弁正隆銀行を開設 | ||
| 1911年(明治44年) | 孫文と交流 | 辛亥革命 |
| 1912年(大正元年) | ||
| 1914年(大正3年) | 第一次世界大戦 | |
| 1917年(大正6年) | 瀋陽建物株式会社専務取締役、奉天商業会議所副会頭に | |
| 化学工場・石炭・石油販売業にも手を染め、奉天製氷株式会社の監査になる | ||
| 1918年(大正7年) | ||
| 1925年(大正14年) | 孫文、死去 | |
| 1828年(昭和3年) | 奉天からウランバートルまでの広大な土地を買い占めその路線に沿ってシェルと共同のガソリンスタンドを作ろうとする | |
| 1929年(昭和4年) | 世界恐慌が起きる | |
| 1931年(昭和6年) 8月 | 日本軍が満州事変を起こそうとしていることを事前に知る | |
| 9月 | 再び東京へ向かったが脳卒中に倒れる | |
| 9月17日 | 脳血栓にて東京で永眠(享年64歳) | |
| 9月18日 | 満州事変勃発 |